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作 家

高木 公史

大島 幸治(評論家)

1954年 東京生まれ
慶応義塾大学大学院経済学科研究科修士課程修了。
2011年「アダム・スミスの道徳哲学と言語論」で慶大経済学博士。
英国思想史・社会史専攻。
スコットランド啓蒙周辺の言語哲学、文法論、道徳哲学研究、ファッション文化社会論、身体論、現代思想、現代アートなどを対象とする。

高木公史論の試み

 高木公史展(銀座永井画廊2021年10月8日~23日)を観た。私は、これまでに何度か認識論上の問題として高木公史について論じてきたが、現代のような時代における彼の新作発表は思想史上の一つの事件なのだと思ってしまう。なぜそのように思ってしまうかについて以下、じっくり語っていきたい。

高木公史の紹介に情熱を燃やしている永井龍之介氏は、彼の作品について「写実」とか「写真のような」といった表現を断固として使わない。私もそれが正しい評価だと考える。たしかに高木公史の凄まじい描写力を前にすれば、人はそのような言葉を使いたくなるだろう。しかし、今、流行の「写実絵画」に包括される作品群に付随する、ある種のイメージもあるから、それは彼の作品の本質を覆い隠してしまう。高木作品がいかに写真とは異なり、いかに写真を越えているかは再度、強調しておかねばならない。また彼の視点が持つ深い宗教性は、流行の「写実絵画」とか「スーパーリアリズム」とは異なる方向性を持っていることも強調しておきたい。

 興味深いことに、今回の高木公史展について日本から遠く離れた南ドイツの新聞が論評、紹介している。長くドイツで活躍している彼のことだから、日本よりドイツ、ヨーロッパでの方が知名度も評価も高いのは当然だろう。その短い論評の中に「ゾンビ」とか「現代のゴシック」という表現があったが、この奇をてらったようにも聞こえる言葉の背後に、私が析出する高木作品の本質に通じるものがある。以下、順次、論じていこう。

 まず「まるで写真のよう…」という感想への反論である。

 そもそも写真であっても、この大きさまで引き延ばせば画面が荒れてしまう。つまり高木作品は、写真の画素数をはるかに超えた情報量なのだ。その不思議さは、画面のどの部分を切り取ってみても主題扱いのフォーカスがあてられ、微細を窮めた描写がなされているのに、それでいて全体のバランスが失われていないことにある。レンズが一つのカメラ(二眼レフであっても)では、画面中央でない部分にフォーカスしたり、このようにすべてにフォーカスを当てた表現は不可能である。ここにあるのは、高木公史の世界認識そのものなのである。

いわば、すべてがフォルテで描かれている画像は、まるでバッハのオルガン曲のように、強弱のないまま完璧な小宇宙を構築している。「今、そこに実在している」かのような人物像だけでなく、その衣服のレース装飾の質感や小物のリアリティー、いや、背景の芝生の状態までもが、まるで4声、5声もの複雑なフーガのように、どれが旋律どれが伴奏、どれが「主」でどれが「従」ということがないまま、奇跡のような調和で対位法的小宇宙を構成している。目を向けるどの部分にもテーマとしての存在感があるのに、少しも“うるささ”を感じさせない。むしろ部分に目を向けることで、実はその部分もフーガの不可欠な声部として重要な意味とメッセージを持ち、全体の音楽の構成に参加しているのだとわかることになる。

 高木公史の表現は、レオナルド・ダ・ヴィンチのような極限微細の点描手法によって輪郭線を持たない。一見、フォーカスが当たらず、ぼやけた背景に描かれたと見える芝生でさえ、じっと凝視していると、人に踏まれた芝の茎の曲がり具合から泥にまみれて少し枯れた葉の状態まで鮮明な情報が伝わってくる。この過剰の情報量に驚くが、それでいて背景から目を転ずると、フォーカスが当たったように描かれた分、人物像が3D画像のように三次元立体の実在感をもって迫ってくるのだ。

 これは、絵画の起源を語ったプラトンの洞窟の寓話のように、愛しい対象の影をなぞることで対象の美しい瞬間を記憶にとどめる記号あるいは象徴としての二次元の輪郭線を得る、というのとは異なり、存在物の写像でも象徴でもない。リアリティー自体が、視線の動きの中からフワリと現出するようにさえ感じる。写した模造ではない、永遠不変のリアリティーの現出…このような不可能な表現と対面してしまった衝撃を「ゾンビ」とドイツ人記者は表現したのだろう。

 興味深いことに高木公史の人物像には物語性がない。バッハの厳格な対位法による音楽に「こういう感情、気持ち」というものが見出せないように、これは感情の表現でもない。物語の一場面を描いて、動画の物語世界に没入していくカギとしようなどということもない。今、目の前にある世界の事物、人物を何の感情も交えず写し取りながら、この作家は今、目の前にある世界に全幅の信頼を置くだけでなく、それがそのままで完璧な神の創造世界であり、被造物の思いや浅慮を越えて全能の神の叡智の顕現なのだと賛嘆しているかのようだ。

 冷静沈着でありながら決して冷淡でも冷徹でもなく、ひたすら誠実に対象を修練の技で描いていく。描くことが信仰告白となっているかのように、彼の前にはおろそかにできる実在などないのだろう。微細な点描の一点にすら心血を込めた画業。

 高度に発達したICT(情報通信技術)に囲まれ、私たちの「現実」はますます情報、単なるデータと化していき、フェイクニュースやVRの方に真実味あるかのような状況となっている。世界で起こる現実の出来事は、私たちの想像を越えた残虐性と悪意、無関心、冷酷さに満ちたものでさえある。このような時代にあっては「現実」とか「実在」といった概念自体が揺らいでおり、「神」「信仰」「愛」「希望」「創造の善性」といった伝統的な価値を持つ観念さえ、前時代的なものとして効力を失いつつある。そのような中、高木公史は、目の前にある神の創造物の「実在」の善性と存在意義に全幅の信頼を置き、画業を天職と心得て積み上げ鍛え上げた修練の技によって、まるで修道僧のようにリアリティーを写しているのだ。私が「事件」というのは、このような営みの苛烈さにある。

 ドイツの新聞記事にあった「ゴシック」という表現から19世紀イギリスの思想家、ジョン・ラスキンを連想したが、まさしくラスキンは激情に基づく芸術表現を「感傷的誤謬pathetic fallacy」と呼んで否定的に評価していた人物である。高木公史の冷静な描写は、「私は美の印象が感覚的なものであるこということを全面的に否定する。それは感覚的(sensual)でも知性的(intellectual)でもなく、道徳的(moral)なものである」と述べたラスキンを思い出させる。この“moral”という言葉こそ、高木公史にふさわしい。「感傷的誤謬」から離れて、美の本質と目的を追求するテオリア(theoretic)=「観想・観照・構想」によって「存在すること」への「歓喜と感嘆と感謝(Joy, Admiration, Gratitude)」に導かれていく芸術…これをラスキンは語った。工業化によるこの世の物質的充足がもたらされ、その根底にある合理主義・効率主義・機械主義・功利主義が芸術と人間精神を侵食している19世紀の社会状況にあって、動物的な耽美・邪悪な欲望・貪欲を排し、神的なテオリアに近づくために、芸術をmoralなものに高めなければならないとしたラスキン。このラスキンと現代の高木公史が、私の中でどこかつながってしまうのである。

 このように考えてみると、高木公史の人物像に充満している気品、芳香が漂うような高貴さがわかるような気がする。

今、流行の「写実絵画」には、愛する恋人の美しい裸体のこの瞬間を写したい、残したいという強烈な感情や欲望、秘め事を覗き見るような背徳観、どこか淫靡なエロチシズム…といったものがまとわりついているものが多い気がする。たしかに原義のエロスは生命力原理につながるが、美しく愛おしい対象の「この瞬間」を写し取って永遠に手元に置いておきたいというのは、やはりラスキンが言う感傷的誤謬の系列なのだろう。この系列と高木作品とはあまりに大きな距離がある。

 ラスキンは、『ヴェネチアの石造建築The Stones of Venice』(1851-53)の有名な第6章「ゴシックの本質」において、ゴシック建築の精神的特性として次の6つの要素を挙げている。(1)savageness, (2)changefulness, (3)naturalism, (4)grotesqueness, (5)rigidity, (6)redundanceといった概念がこれである。(1)は洗練されていない不完全さを表す「野生」と訳せるが、ラスキンは機械的均一性・画一性による表面的な完全さは生命美とは遠ざかる方向性だと批判し、創造的変化の原動力となるsavagenessを称揚したのであった。高木公史は、洗練され、それ自体として完成された対象ではなく日常的で生活感のある対象を描くことで、そこに生命美となるものを見出そうとする。(2)においてラスキンは、西洋的伝統によってパターン化された作業を芸術的でないとしたが、高木公史も日常的な人物の姿を描きながら、そこに存在することの崇高さ高貴さを表現する“聖像”と化しているのも変化・多様性と言えるだろう。

(3)の「自然愛」について言えば、高木が描く自然風景は、カメラでは決してフォーカスを当てられない箇所にフォーカスを当てながら、それ以外の箇所も愛でるように慈しむように描きこんでいる。これは彼の世界認識のあり方そのものを反映しており、世界は脳による認識を反映した単なる「現象」などではなく、神の創造の善性を顕現させた「実在」、私たちの認識の外に確固として「ある」ものなのだ。主人であり支配者としての人間が自然を愛護するのではなく、私たちはこの豊かな自然に包まれ、その不可欠な一部として一体化している…このように彼は自然を描く。まさしくこの世界に対する彼の「歓喜と感嘆と感謝」の表現なのである。

 ラスキンは(5)の「厳格さ」において活動力の強靭さを強調し、非キリスト教徒の神話世界に彩られた北方的精神の頑固さと南欧的な柔和さとの融合をヴェネツィアのゴシック建築に見出した。高木にあっては、ドイツ生活で培ったプロテスタンティズムの倫理と、日本の神道にみられる自然崇拝と自然との一体感、明浄正直な精神とが融合するものかもしれない。

 高木作品に顕著なリアリティーの過剰さは、記号性や象徴性を越えた実在感の、不可能とも言えるレベルでの表出への挑戦である。ラスキンは、ゴシック建築について粗野や不完全性による生命力、過剰を容認して想像力の多面性を発揮する試み、そしてテオリア=「観想・観照・構想」による総体性を人間の謙虚さ、誠実さの表れと主張したが、これと似たものを私は高木作品に見出す。「芸術は、善良で偉大な人間精神の人格・活動・生き生きとした知覚を表現している場合にのみ価値がある…すべての芸術ははっきりと全幅的で最高の意味における人間性(manhood)の作品である場合にのみ、偉大で、優良であり、真実である」と語ったラスキンが高木作品を観たら何と言うだろうか。人による「手足や指だけの作品ではない」ことを求め、崇高な次元から手を差し伸べられた、「人間であること(manhood)」の営みである芸術…これかもしれない。私は、実在への確固たる信頼に基づくと思われる高木作品の過剰のリアリティーの表出を「宗教性」と感じているわけだが、その理路をラスキンが裏打ちしてくれていると考える。

 こうした作品の前に立って、私の背筋は真っ直ぐに伸び、緊張感と感動に包まれる。リアリティーが希薄となりつつある現代にあっても、このようなものを間近に眺めることができること、まだこのような芸術が新作として目の前にあることに安堵を覚えるのである。

大島幸治:思想史研究者 博士(経済学)

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