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Nagai Art Gallery
Since 1971
Yurihito Otsuki
-瀧口修造の光を祝う -
会期:2026年6月13日(土)-27日(土)
日曜休廊
10:00~18:00
一人の画家のメッセージ
人生の三分の二という歳月を、サン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアルというスペイン王国黄金世紀発祥の地に暮らし仕事をして来た私が切に願うのは、今を生きる画家・芸術家として、不透明で見ることを強いられる表面的な現代性ではなく、万人が見ることが出来、古来より続く古今東西の悠久の美を説明なしに有する真の人間の魂の営みとしての絵画を見出したいということです。
それは簡単なようですが、実は荊の道です。生命(La vida)とは、私という思いの外空虚な利己的な器に目を向けることではなく、この自分を生かしてくれている真の実体を深く感受し探究する事です。絵を描くことは、私の貧しき魂を深め命を吹き込んでくれている森羅万象と人間精神・友愛の美を、目に見える命そのものに変幻させることなのです。
今回十年の歳月をかけて翻訳し、私の絵画として受胎させた「詩的実験」の瀧口修造にしても、日本悠久の美の本質である歌舞伎や中村彝、わが心酔の西欧神話伝説や象徴主義、ロマン派文学の宇宙にしても、それらを私自身の命の根源として絵画空間に甦らせる営みが、私の絵画の本質であり、探し続けているものです。大岡信やカルロス・オロッサ(Carlos Oroza)といった真の魂を持った大詩人達との深い親交を通して、彼らとの共同作業を果たしてきたのも、私の命と魂をこれらの詩人たちの精神の鏡に赤裸々に映し出すためでした。
現在の深刻な戦火の只中、残念ながら多くの悲惨な犠牲者たちを生み出しているこの戦後未曾有の緊迫した国際情勢の中で、一人の画家であること。それは作品が私の命と等価のメッセージとなり、時空を超えた大海に投げ投じる魂の《投瓶通信》の絵画として、東西・老若男女を問わず、それを待ち望んでいる未知の人々の心の岸辺にいつか届くことを信じて描き続けること、それ以外に何も私が真の画家であることを証しするものはないと思っているのです。
大築勇吏仁
主旨
スペインの聖地エスコリアル在住40年。2024年シュルレアリスム宣言(ブルトン)100周年を記念して、日本を代表するシュルレアリスト瀧口修造(1903-79)の代表作「詩的実験1927-1937」(1967)世界初の外国語版(スペイン語訳)豪華決定版詩集を刊行。25年出版を記念して「瀧口修造の光を祝う」(マドリード現代アートセンター アントニオ・アリソン書店)展覧会が開催され大評判を得る。
今回、瀧口修造の詩を基にしたシリーズと合わせて、早稲田、歌舞伎など由縁のモチーフ作品も展示、瀧口が理想とした夢と幻が交錯する美の祝祭空間が現出する。
弊廊では8年ぶり4回目の個展。
永井龍之介
出品作品
大築勇吏仁 プロフィール
二胡と蘭の序曲
-大築勇吏仁・瀧口修造の光を祝う-
トマス・パレデス/Tomás Paredes
スペイン/ 国際美術評論家協会両名誉会長・スペイン文芸家協会副会長
雨滴が硝子窓にゆっくりと滑り落ちていくような、悲しげな音を奏でる二胡の嘆きとメランコリーの響きを凌ぐことは、容易ではない。「芸術」という言葉は、しばしば、血の滴るような感情の認識を濁らせてしまう。大築勇吏仁の哀愁が投影する情緒は分析出来るものではない。それらの感受性の震撼状態が我々の思考をくらませ、夢幻界の蜻蛉と一角獣の森を垣間見させるからである。
二胡の音は時の流れを止め、私たちを私的な空間に隔離し、そこで感性は気まぐれな不眠の彷徨をし始める。憧れの蕾が花開き、蘭の花びらの中で千の托鉢僧たちが舞い始める。それがどんな芳香かは謎であるが、その香りは拡散して慾望の端から端までと広がってゆく。瀧口修造とは、千変万化する世界的なシュルレアリスムそのものである。
瀧口の詩学は音楽であり、感じるものであり、理解を必要としない。それは私たちに飛翔してくる精神そのものなのである。誰が、我々の肺の椿がどのようにして、秒ごとに花開くのか尋ねるものがあろうか。今まで誰も、このように多くもの鱗のある玩具を、羽毛のある凧、火のシダ類、囀る青いマヒワを、瀧口の「詩的実験」のように見た者はいない。その幾つかの貴重な詩がこれらのページで堪能できることとなった。
大築勇吏仁は、オーロラの輝く森の人里離れた部屋部屋に住まう天使である。他の者にはすでに失った発見物の納骨堂しか見えない所に、大築は極楽鳥たちが、レダやシュルレアリスムの先駆者達を冠された瀧口修造、妖精のようなクレオパトラの娘に言い寄るのを見る。また、金髪の舞踊家が帰還した彼の王族達と舞い始めるのを、そして銀梅花とジャスミンを手のひらに、漆黒の首の白鳥の一隊に守られながら月から舞い降りるマヤを見る。
これらのカンバスと詩の中に足を踏み入れずにして、どうしてシュルレアリスムと象徴主義の和解を目の当たりにできるだろう? 芸術、この精神の大動脈は、羞恥することなく清澄さと向き合える機能に酸素を送り蘇生させる。堆肥が、ラベンダーの花より力を持つ時、何かが間違っているのだ。私たちがだろうか。今の世界? それともその両方? 輝く純白の傷こそが、疎外された孤独の夜を癒す事が出来るのである。今ここで祝われる光が発火した雪嵐のように燃え上がる。
そう、やけどをせずに炎を愛撫するためには、勇気を持つべきなのだ!それは、瀧口の日本語の旋律を悲惨な顚末にならずに、スペイン語のそれへと大築氏が見事に移し得たことと同意である。わが無知な心は汝、詩の亡霊と戯れる野生の獣が何者かは知らないが、汝の存在を知覚する事はできる。汝は、優雅な運命の豹が呼び覚ました、世界のどんな祭壇にも嘗て祀られたことのなき神々しい存在である。
なんと独自な方法で光を祝うのだろう!この画家、翻訳者は、描写表現とは独立した彼独自の絵画言語を創り出す。それは目に見えるものではなく、実在の滑らかな肌触りであり、その脈動する広がり、雪の銀の本質なのである。私は、単に特権を持つ観客として、言葉が裸形となり、イメージが兆しと象徴の奇跡の中でうずくまる時、その火花が生誕するのを目撃してきたのである。
これらは、挿絵では勿論なく、絵画に再創造したものでもない。そうではなくて、泡立つ無垢を宣言するエピファニー(現出)の感動を伝達するものなのだ。それは丁度、荒れ狂う大洋に一匹の蝶が舞うのを、またペチュニアの花の群れが、孤独の一隊を襲撃するのを目撃した時のように。そして瀧口の詩は、夢ではなく未来の先んじた旋律、あらゆる深淵の縁まで広がってゆく琵琶楽のカンタータである。
大築勇吏仁の絵には、象徴主義者の神秘の虎が永遠に去らずに住み着いている。その目達、手首、薔薇、稲妻のような白鳥達、白鳥のような雲の群れ、謎めいた場所、キリコ風の庭園を散策するマヤ、長方形の天国にいる蝸牛舞踊手、ゆったりとした二胡の楽音のように煌めく水の面、新しい夢を生み出している海洋の大軍ら。
二胡は、中国起源の楽器であるが、日本のメランコリックな神秘性をも包み込む。その祈りは、純潔性への熱狂を高める瀧口の黄金宮の虹の光と同調する。この詩人は、その言葉、イメージ、彼のデカルコマニーのマカッサルの花の芳香を通して、科学にも美を見出し、未来の新しい未知の慣習をも構築するすべを知っていた。
二胡は、南胡あるいは西洋では中国バイオリンとも呼ばれており、それは大築氏の絵画においてはそのメランコリー性は昇華されているのだが、彼の気質そのものとは同調するものを持っている。二胡は垂直方向にその音が、止むことなく上昇する神秘な感情のように、上へ上へと広がってゆくのだ。一方琵琶の音は水平に広がり、瀧口の声を包み込み、この詩人は日本庭園の池の上に彼の幻の街をつくりながら睡蓮の花たちの合唱に聞き入っているのである。
《本稿は『スペイン美術評論家協会(AECA)/国際美術評論家協会(AICA)』公式サイト及び『マドリード美術評論家協会(AMCA)』公式サイトに掲載された東京永井画廊6月13日開催「大築勇吏仁・瀧口修造の光を祝う展」のための論評です。》






